織田信忠による天下統一(その1)


 織田家が何故信長の死後、天下をあっけなく他家に奪われたかを考えますと、私は信雄と信孝が対立した事にすべての原因があるように思います。秀吉はこの対立を利用することによって織田家に仕える一武将から天下人に成り上がりました。
 では、何故織田家に内部分裂が起こってしまったのでしょうか?


 信長は自身が織田家の家長としての権力の構成に苦労したからなのか、後継者争いによって織田家の内部崩壊を防ぐためなのか、比較的早期に織田家の家督継承者を信忠に絞り込んでいます。次男信雄は北畠家、三男信孝は神戸家、四男秀勝は羽柴家、五男勝長は遠山家へと次々に信忠以外の男子を養子に出しています。このうち五男勝長は本能寺の変の時点では遠山家との養子縁組は解消されていますが、織田ではなく津田を名乗っています。

 織田家における津田姓は徳川家における松平姓のようなもので、一族ではあるが継承権のない人が名乗っていた姓ではないかと私は推測しています。勿論信長にはこの他にも多くの息子がいますが、本能寺の変の時点で元服を済ませていたのはこの五人だったと思われます(異説あり)。

 この五人の中で本能寺の変で死亡しているのは信忠、勝長の二人です。残った三人、信雄は北畠家当主、信孝は神戸家当主、秀勝は羽柴家の後継者です。これを見る限り織田家の家督継承者になる資格のある信長の子供は存在しないと言ってもいいでしょう。

 養子になったり、他姓を名乗ることで家督が継承できなかった例を比較的近い時代の中から探すと、徳川家康の次男秀康の例が一番有名でしょう。秀康及び彼の子孫は徳川姓を名乗ることはなく、将来的に彼の子孫が徳川本家を継承する可能性はありませんでした。また、甲斐武田家の家督継承者は勝頼ではなく、勝頼の子の信勝でした。勝頼の立場は信勝の後見人です。勝頼が武田家の家督を継承できなかった理由は、勝頼が一度諏訪姓を名乗っており、すでに武田家の人間ではなかったと思われていたのでは無いかという事ぐらいしか理由が見あたりません。


 これらのことから考えると、織田家の家督継承者は秀信(三法師)だという秀吉の主張が他の人間に受け入れられるだけの理由があることがわかると思います。もし当時の常識として秀信(三法師)の後継論が突飛なものであったとしたら、秀吉がこれを主張することは当時の秀吉を取り巻く状況から考えると不可能だったと思います。秀吉の主張に理があったからこそ、織田家家臣団の合意の元で秀信(三法師)が織田家の家督継承者として立つことができたと思います。また、本能寺の変が起こった時点での織田家の当主は信長ではなく信忠です。家督の継承を兄弟間で行うことは珍しいことではないとは言っても、当主の子供が存在する以上は親子間での相続の方が受け入れられやすいでしょう。

 しかし、後継者として定められた人間よりも実力的に上の人間(あるいはそう思っている人間)が後継者から外され、なおかつその人間を抑えられる立場、実力を持つ人間がいない以上、かつての後継者候補が不満を持つことはよくあることです。

 織田家の場合は信孝が火種になりました。彼にしてみれば兄弟の中では自分が一番家督継承者としてふさわしいという思いがあったでしょう(私は彼のその思いを煽った人間がいると思っていますが)。ところが秀吉の策略の為、織田家の当主になれなかったという不満があったと思われます。結果的には彼のその不満が織田家に内紛を発生させ、織田家自体の凋落を招くことになります。
 次回では信忠が生き残れる可能性、そして彼の手によって天下統一が可能だったかを考えてみたいと思います。